ホンキー・ベイビー・バーギー

ホンキーハウスで3か月ぶりのライブ。対バンは久しぶりにご一緒する竹田トシヒサさんと、はじめましての拓朗さん。いずれもアコースティックで、僕らだけが大音量だった。はじめての箱で不安だったのだけど、主催の竹田さんが仕切ってくれたのでリラックスして演奏できた――というか、リラックスしすぎたせいでみんなミス連発。反省点の多いライブになってしまった。

ライブ後、打ち上げが終わって家に帰ってから、弾き語りもいいな――と真剣に考えたけど、ベイビーバギーとしてちゃんとやることをやってからだな――と思い直した。

僕らはみんなフリーライダー

ネットのコンテンツはタダだと思っている。紙の新聞はお金がかかるがネットで読めばタダ、CDで音楽を聴けばお金がかかるがネットで聴けばタダ、パッケージのソフトウェアを使えばお金がかかるがネットでダウンロードすればタダ。だけど、そんなウマい話があるか? コンテンツをタダで配信できるのは広告モデルがあるからだということになっているが、僕にかんしては広告バナーをクリックすることはないし、情報を得たぶんの対価を払っているとは思えない。完全にフリーライド(タダ乗り)しているわけだ。実際、新聞社の収入は減り続けているし(産経新聞「大手新聞社決算、広告・部数落ち込みで各社減収」)、雑誌は相次いで休刊している(CINRA.NET「日本を代表するカルチャー雑誌『STUDIO VOICE』が8月発売号で休刊」)。コンテンツの需要はあるにもかかわらず、コンテンツ産業がまったく潤っていないのが現状だろう。これはやっぱりどこか間違っている。

情報革命バブルの崩壊 (文春新書)

山本一郎『情報革命バブルの崩壊』(08年、文春新書)は、ネット論客の最重要人物――切込隊長による啓蒙書。ネットの「無料文化」についての考察からはじまり、ネットバブルのからくり、ソフトバンクモバイルの危うい経営手法などを独自の視点で解説しながら、「情報革命バブル」に終了宣言をする。だけどこれは、これからはじまる新しい時代の幕開け宣言でもある。僕らがこれから新しいモデルを作っていかなければならないのだ。

アーティストが楽曲提供するとき

楽曲提供――というとたいてい、自作自演系のアーティストが、他のアーティストに楽曲を提供することを指す。たとえば織田哲郎がB.B.クイーンズやZARD、相川七瀬に提供したり、中島みゆきが工藤静香やTOKIOに提供したり、槇原敬之がSMAPに提供したり。で、作曲者がもともとアーティストだから、提供後、セルフカヴァーする例も少なくない。そこで問題になるのは、やっぱり本人が演ったほうがいい――という事態だ。作曲者と提供先アーティストのキャラが全然違うならこういう問題は起こらないのだが(たとえばここで挙げた例では織田哲郎とB.B.クイーンズとか)、似ている場合には起こりやすい。しかも、多くの場合、作曲者のほうが提供先アーティストより歌唱力があるため(中島みゆきと工藤静香など)、提供先アーティストの歌を聴きながらも作曲者のことを思い浮かべ、これはこれでいいけどセルフカヴァーが聴いてみたい――と思ってしまうのだ。

トリドリ。

ともさかりえの9年ぶりとなる新譜『トリドリ。』(09年)は、椎名林檎はじめ東京事変の伊澤一葉、浮雲、クラムボンのミト、原田郁子(作詞のみ)、木村カエラ(作詞のみ)らが楽曲を提供している。僕は歌手としてのともさかりえは好きだから、このアルバムはこのアルバムでいいのだが、椎名林檎の曲なんかは、やっぱり本人に歌ってほしいと思ってしまう。いい曲ならなおさらだ。収録曲「都会のマナー」は、これだけでアルバムを買う価値があるほどの名曲で、ともさかりえにも合っているとは思うが、それでやっぱり、椎名林檎と東京事変の曲として聴いてしまう。ただこれは、椎名林檎の問題なのかもしれない。あまりに林檎印なのだ。椎名林檎は過去にもともさかりえに「カプチーノ」や「少女ロボット」などを提供しているが、聴いたとたん、椎名林檎の曲だとわかってしまう。他にもTOKIOにも「雨傘」という曲を提供しているが、これもやっぱり椎名林檎のほうが似合いそうだ。椎名林檎らしくないのは広末涼子に提供した「プライベイト」くらいか。個性が強く、オリジナリティが高いアーティストほど、楽曲提供に向かないのだろう。椎名林檎の「都会のマナー」が聴きたい。

◆EMIミュージック・ジャパン 特設ページ http://www.emimusic.jp/tomosaka/
◆公式サイト http://www.itoh-c.com/tomosaka/