変わりゆくジャーナリズム――映画『消されたヘッドライン』

WEBファーストという言葉があるが、これは数年前に欧米の新聞業界で言われ出しだことで、それまでは紙媒体の情報をウェブ媒体に二次利用していたが、新聞の発行部数が減り続けるのにあわせ、最近記事を紙ではなくウェブで配信し、紙とウェブとの優先順位を逆転させるような編集方針を指す。だから欧米では新聞社が配信する情報量は紙よりウェブのほうが圧倒的に多い。しかし日本では紙媒体の新聞がまだなんとかがんばっていることもあり、最新記事はウェブで配信されるが、優先順位を逆転させるまでにはいたっていないようだ。

映画ではよく「政治とジャーナリズム」の問題が取り上げられるが、このようにジャーナリズムが変わっていくにつれ、当然、映画での描き方も変わっていくことになる。

消されたヘッドライン [DVD]

映画『消されたヘッドライン』(09年、アメリカ・イギリス)は、現代の政治とジャーナリズムを描いたサスペンス作品。若手政治家の秘書が電車事故で死亡した事件と、その前夜に起きた黒人少年の殺害事件――ふたつの事件を追う新聞記者はやがて巨大な軍事企業にたどり着くが――。監督は ケヴィン・マクドナルド、出演はラッセル・クロウ、ベン・アフレックなど。本筋にはあまり関係ないが、現代っぽいなと変に関心したのは、ラッセル・クロウ演じる新聞記者と一緒に事件を追う、ケヴィン・マクドナルド演じる記者が、ブログの担当だということだ。このふたりが、ジャーナリズムの変化を表している。ストーリーはしだいに大きくなっていき緊張感は増していくのだが、最後のサプライズがまさにサプライズで、あ然としてしまった。え?それでいいの??――みたいな。まあ、直球勝負だとよけいに陳腐になってしまうだろうから、これはこれで妥当な終わらせ方なのかもしれない。

ラストの主人公のセリフが印象に残った。

なぜ? もう誰も新聞を読まないから?
数日間は売れてもあとはただのゴミか?
だが憶測だらけの三流ニュースと真実の報道を人々は見分ける
地道に事実を追い記事にする努力を評価するはずだ

現代アメリカの政治とジャーナリズムを描いた作品としておすすめ。

◆公式サイト http://www.stateofplaymovie.net/

カンフー映画の未来――映画『チョコレート・ファイター』

カンフー映画が好きなんだけど、ジャッキー・チェンやリー・リンチェイはすでに年老いてしまったので、これから新作に期待するわけにはいかない。だから今後は彼らが残してくれた作品を見返すことしかできないわけで、そういう意味ではいわゆるカンフー映画は終わったジャンルといってもいいのだろう。――が、しかし、もしかしたらまだ未来があるかもしれない――そう思わせてくれるのが、タイの女の子、ジージャー・ヤーニンだ。

チョコレート・ファイター [DVD]

映画『チョコレート・ファイター』(08年、タイ)は、タイの本格的アクション映画。監督はヤーニン・ウィサミタナン――『マッハ!!!!!!!!』や『トム・ヤム・クン!』のあの監督である。そして主役をつとめるのが、ジージャー・ヤーニンだ。たとえ女の子でも、スタントなし、ワイヤーなし、CGなし――のリアルアクションが繰り広げられる。ジージャーはもともとテコンドーの選手だったらしいが、この撮影のために4年間みっちりとトレーニングを行い、2年をかけて撮影に臨んだ。このアクションがどれだけすごいかは見てもらわなければわからないが、こんなに美しいアクションは見たことがない。芸術的体技。そしてこの愛くるしさ。まさに無敵のヒロインだ。作品のストーリーはさておき、とにかくこのアクションは必見。ぜひ彼女にはタイから中国へ渡ってもらい、ツイ・ハークかジョン・ウー、あるいはジャッキー・チェンの監督でカンフー映画を撮ってもらいたい。カンフー映画の未来はこの子にかかっている。

◆公式サイト http://www.chocolatefighter.com/

誰もテレビを見なくなる

テレビって本当におもしろくなくなったんだな――と、ゴールデンタイムにテレビを見てみて思った。いくらザッピングしても見る番組が定まらない。フジの「さんま福沢のホンマでっかニュースSP」はだらだらと出演者の寿命を予想しているし、TBSの「日本レコード大賞」は過去のVTRが構成もされずに挿入されているし、朝日の「ナニコレ珍百景」は全国のとくに驚きもしないスポットをタレントが紹介するだけだし、日テレの「ザ!世界仰天ニュース」はコンテンツの統一感がまったくないし、NHKは紅白の予告だし。民放にかんしていえば、完全に出演者に依存している感じ。コンテンツはクソでも、芸人が大きな声でワイワイやれば視聴率が取れると思っているのだろうか。これは制作費がうんぬんという問題ではなく、ひとえにコンテンツ制作能力の低下が原因だろう。すでに若者はテレビから離れている。このままでは近い将来、誰もテレビを見なくなるだろう。

あと「さんま福沢のホンマでっかニュースSP」では専門家の先生が将来を予想していたが、「専門家」の人選は大いに問題ありだろう。まともな先生とトンデモな先生がごっちゃになっているので、視聴者はどれがネタでどれがベタなのか、判別がつかないのだ。たとえば池田清彦さんが近い将来に国が財政赤字を解消するためにお札をすることでハイパーインフレになり日本人の給料が半分になる――という予想をし、すぐに森本卓郎さんがそれはウソだと否定したけれど、よく知らない視聴者はこの2人のキャラから判断し、池田さんがまともなことを言っていると思うだろう。だけど経済学的には池田さんがトンデモなわけだ。というか、この池田さんはそもそも生物学者だから、経済についてうんぬんするのは畑違いもいいところ。テレビ局がなぜこういう人を出すかというと、ようするに専門家ではないから、おもしろいことを言ってもらえるわけだ。本物の専門家が将来を予想しても、テレビ的にはまったくおもしろくないだろう。で、テレビがおもしろいことをやるのはもちろんいいのだけど、問題なのは、視聴者がそれをベタに受け止めてしまう恐れがあるということだ。これは超能力や心霊、占いなどでも同様。テレビ局はおもしろさを求め、視聴者は誤った認識を持ってしまう。トンデモをおもしろく伝えるのは容易いが、テレビ局は、まともなことをおもしろく伝える努力をするべきだろう。

帰省というドラマ――映画『歩いても歩いても』

父方の祖母が他界するまで、父の実家に入ったことがなかった。父は長男だったが若くして家を出てしまい、代わりに弟(私にとっての叔父)が家を継いだのだが、父と叔父とは若い頃に仲違いをしており、父は自分の実家に何十年も帰ることができなかったのだ。ただ仲違いをしていたのは父と叔父なので、家には入れなくても、叔父に隠れて祖母に会うことはあった。その祖母が数年前に他界し、それがきっかけで父と叔父は仲直りをしたわけだが、すでに祖父も祖母もこの世にはおらず、私は父方に関しては「おじいちゃんとおばあちゃんの家に行く」ということがなかったわけだ。だから、私にとって「帰省する」というのは、母の実家に行くことを意味していた。父も一緒に行くのだが、当然、肩身は狭かっただろう。集まった親戚はみんな、私を除けば血のつながりのない他人なのだから。子供の頃には考えもしなかったが、いま思えば、ずいぶんと切ない話だ。

歩いても 歩いても [DVD]

映画『歩いても 歩いても』(08年、日本)は、家族の帰省を描いた作品。老夫婦の家に集まった次男の一家と長女の一家。長男は数年前に事故で他界、次男の息子は妻の連れ子で、老夫婦の血のつながった孫は長女の子供だけ。けっして万事がうまくいっているとはいえない家族の2日間を描く。監督は是枝裕和、出演は阿部寛、夏川結衣、YOUなど。帰省――とひと言でいっても、その形は家族の数だけある。楽しい帰省もあれば、ツラい帰省もあるだろう。それぞれの家族はそれなりにうまくいっている。だけどその家族が集まると、とたんにぎくしゃくしてしまうのだ。劇中、長男の事故死の原因となった若者が仏壇を参りに来るシーンがある。この家族がぎくしゃくしてしまうのは、ひとえに長男を亡くしてしまったからだが、だからといってこの若者を責めたところでどうなるわけでもない。長男が生きていればさえ、すべてはうまくいっていただろうか。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。帰省することで私たちは、あったかもしれない人生に思いを馳せる。それは楽しいことでもあり、ツラいことでもある。

ジムについて

いつも仕事場のパソコンを使っているため、数ヶ月ぶりに自分のパソコンの電源を入れたら、起動に10分以上の時間がかかってびっくりした。こういうのもやっぱり毎日電源をいれないとだめなもんなんだろうか。

ジムに通い始めてしばらくたつのだが、久々に筋肉痛になってうれしい。ちょっとMな気分やね。痛いのがうれしいってね。昔人間なので、筋肉痛にならないと筋肉がつかないと半ば本気で信じている。有酸素運動を楽しくやってやせよう!っていう最近のトレンドにはなかなかついていけない。ジムで走っている時は本当に走ること以外の何も考えられないので頭が解放されてストレス発散にもってこいだ。まあいつまで続くかはわからないけど。目標は3ヶ月だから、それまではなんとか続けていきたい。目標は体脂肪率が20%台前半になること。あんまりガリガリのムキムキにはなりたくないので、見極めが肝心。そう、ジムに通っていて思うのは同世代の人たちに比べてあまりに自分の体型がおかしいってことと(全体的にかわいく脂肪がついてなくて、お腹にだけものすごく沢山ついている)、スレンダーな50代、60代の女性はどうしても胸が小さくなるってことだ。脂肪の身体各方面への分配率を自分で決められたらいいのに。いや、上限があってもいいよ、胸には5%まで、とかさ。しかし歳を重ねてもナイスバディでいるってことは本当に難しい。スレンダーな微乳になるか、どこもかしこも豊満な巨乳になるか。後者はいきつけの銭湯で沢山出会う。胸も大きいけど他も大きい。でもそれはそれで素敵。まあそんな心配する前に近々の自分の身体について考えた方がいい。

人のばっかり作ってきたが、今日ようやく自分の年賀状を作成した。作成時間15分。他の人のを作る時間に比べて10分の1以下。年々早くなっていく。歳をとるとこだわりがなくなってくる。よくも悪くも。まあ、楽にはなるわな。人間うまいことできとる。

政権交代の後にすべきこと――宮台真司・福山哲郎『民主主義が一度もなかった国・日本』

政権交代から早くも4か月あまりが経とうとしている。圧倒的な支持率で与党となった民主党だが、昨日の世論調査によると、支持率は急落しているという(朝日新聞Web版2009年12月20「日内閣支持48%に急落 首相の指導力に疑問符」)。記事によると「鳩山首相がリーダーシップを発揮しているとは「思わない」人が74%に達し、内閣不支持の人の半数が理由として「実行力の面」を挙げた」。だけど、僕らは政府に何を求め、鳩山首相にどういうリーダーシップを期待しているのだろうか。

民主主義が一度もなかった国・日本 (幻冬舎新書)

宮台真司・福山哲郎『民主主義が一度もなかった国・日本』(09年、幻冬舎新書)のまえがきで、宮台は政治をバスにたとえている。「運転者は乗客たちとの契約に従って運転している。乗客たちが国民にあたり、契約が憲法にあたり、運転者が統治権力にあたる。近代国家というバスの本義は、乗客たちが運転手に、その都度の目的地を告げ、徹底監視し、文句を言うことだ」と。敗戦後の日本はバスの目的地がはっきりしていた(経済的豊かさ)から、乗客は運転手にお任せでよかった。だけどいまは目的地もルートもはっきりしなくなったので、運転手が正しいルートを選んでいるか監視する、場合によっては替える必要がでてきた。で、乗客はついに運転手を自民党から民主党へ替えたわけだ。「そう。我々は運転手を取り替えた。愚かなくせに「とにかく任せろ」という運転手を「乗客の指示に従う」という運転手に。だがそれからが大変だ。運転手も運転経験が乏しいなら、乗客たちも命令して監視する経験が乏しい。運転手のミスや乗客たちの頓珍漢でバスはあちこちにゴッツンコ」――。じつに的を射たたとえだと思う。本書は、任せる政治から引き受ける政治へ――を主張する宮台真司氏と、民主党の外務副大臣、福山哲郎氏との対談。枕は「民主主義」だが、内容は政治思想についてではなく、政権交代後の民主党の進むべき道、つまりバスの目的地とルートについての対話といってもいいだろう。政権は変わったのに、僕らはまだ変われていないのではないか。そんな思いを強くした。おすすめ。

最後の落語家-立川談志『談志 最後の落語論』

落語ブームなんだそうだ。テレビでは落語家が主人公の連続ドラマ『タイガー&ドラゴン』やNHKの朝ドラ『ちりとてちん』が放映され、書店には落語を特集した雑誌が並んでいる。寄席も混み合っているそうだ。このブームが今後も継続するのか一過性で終わるのかはわからないが、落語が「古典」として見られているかぎりは、あまり長くはないのではないかと思う。落語を現代のものとして見ること。つまり落語と現代のいわゆる「お笑い」とを同じ枠組みで見ることが重要なのではないか。だけどこれはそれほど簡単なことではない。見る側の教養の問題もあるが、なにより落語家が落語というフレームに閉じこめられているように思えるのだ。落語家でありながら落語の枠にとらわれず、人を笑わせることを志す。それができる希有な存在が、立川談志だろう。

談志 最後の落語論

立川談志『談志 最後の落語論』(09年、梧桐書院)は、談志による書き下ろし「談志 最後の落語三部作」の第1弾で、「落語に対する能書きを本にするのはこれが最後になるかもしれない」(本書まえがき)そうだ。「論」とはいっても体系的にまとめたようなものではなく、飲み屋で談志から落語の話を聞いているようなものだと思ってもらえればいいだろう。「落語とは、人間の業の肯定である」という独自のテーゼから入り、落語に対する思いをつれづれに書き残していく。進むにつれてぐだぐだになっていくが、そんなことはどうでもいい。談志の声に耳を傾けることが重要なのだと思わせる力がここにはある。同じ時代を生きるものとして、リアルタイムに談志の落語論を聞きたいと思う。

そういえば談志はM-1グランプリの審査員をやっていたが、談志以外の落語家でそんなことをできる人材がいるだろうか。落語というフレームに閉じこめられているかぎりは、「お笑い」を評価することはできないだろう。談志はそういう意味で最後の落語家になるのかもしれない。

今年も意外なM-1グランプリ

事前の予想はグランプリが笑い飯、準優勝がナイツとハライチだったのだけど、結果はグランプリがパンクブーブー、準優勝が笑い飯と NON STYLE (敗者復活)だった。最後は審査員が満場一致でパンクブーブー。僕はパンクブーブーと NON STYLE は見ていてクスリとも笑えなかったが、笑い飯は大いに笑わせてもらった。これは好みの問題だろう。笑い飯は1回目の「鳥人」のネタがおもしろすぎて、2回目の評価を落としてしまったような気がする。あと最後のチンポジは場を考えて変更するべきだった。でもまあ、笑い飯らしい終わり方だったかもしれない。そのほか気になったところでは、ハライチがネタの選択を間違えなければもっと評価されていただろうことと、ハリセンボンと南海キャンディーズはもう出ないでほしいことと、どうしてオードリーが不参加だったのかということと、モンスターエンジンは先輩に嫌われるタイプだなということ、など。全体を通して昨年よりは健全な大会だった。次回から笑い飯が出ないと思うと寂しい。

コーラスワーク強化月間

定例のスタジオ練習。前回に引き続き新しい2曲を練習した。最近あまりテクニカルな曲を作らなくなったので、新しい曲でもすぐに合わせられて、ほんの数回しか演奏していなくてもライブで演れちゃったりするのだけど、今回の2曲にかんしては過去に例がないほど手こずっている。しかも楽器組じゃなくてボーカル組。僕が変なメロディとコーラスを付けちゃったせいで、苦戦させちゃってるわけだ。ひとみ姉さんは自分に割り当てられたパートをなんとかミネさんに譲り渡そうとするし、ミネさんはすでに諦めて口パク宣言をする始末。まあそんなことを言わずに、ライブまでもう少しあるわけだから、コーラスワーク強化月間だと思ってがんばりましょうよ。

私を殺してください-映画『半落ち』

私を殺してください――と積極的な依頼を受けてその人を殺すことを嘱託殺人という。たとえば愛する人に殺してくれと言われたらどうだろう。もちろん断る。だけど、愛するがゆえに殺してあげたいと思えるときはどうだろう。

半落ち [DVD]

映画『半落ち』(04年、日本)は、アルツハイマーの妻を殺した警察官の、殺害から自首までの空白の2日間を描く。横山秀夫の同名小説を映画化したもので、監督は佐々部清、出演は寺尾聰、原田美枝子など。タイトルの「半落ち」とは警察用語で、一部を自供したことをいう。自首した警察官(寺尾聰)は妻を殺したことは認めているが、自首までの2日間については話そうとしない。半落ちなわけだ。ストーリーはこの2日間の謎について進んでいくが、警察の自己保身、警察と検察の確執、スクープを執拗に追う新聞記者、アルツハイマー病、白血病と骨髄移植など、人間ドラマが絡み合っていく。原作は未読だからわからないが、映画としては冗長で安っぽく、ラストでは完全に白けてしまった。映画化には向かない作品だったのかもしれない。