カテゴリー別アーカイブ: 吉田 真吾

ツイッターに乗り換えてはいけないこと

バンドのホームページはやめちゃったの?と言われて、表示されていないことを知った。原因はサーバーのPHPに関する設定が変更されたせいだが、どうやら数日間、このような状態だったようだ。これについてはすぐに直すことができたのだけど、自分でやっているウェブサイトを放置していた現状を目の前に突きつけられたみたいで、これは反省せねばと深く思った。

さて、このウェブサイトを見なくなったのは、これまで何度か書いているように、ツイッターのせいなんだけど、最近、ツイッターに乗り換えてはいけないこともあるなと思いはじめた。

まずはアウトプットとして。これまではブログをやっていることで、無理矢理ブログにアウトプットしてきたわけだけど、これは自分にアウトプットを強いるという意味で、かなり有効だった。ネタがあるから書いていたわけではなく、書かなければいけないからネタを探し出す状態だったわけだ。もしもブログがなければ何も考えずにその日を過ごすところを、ブログがあるから生活のなかでまわりを見渡すようになり、ツッコミどころがあるニュースをチェックし、本を読み、映画を見ていた。つまりアウトプットするためにインプットする。逆説的だが、ブログは自分にとってインプットのためのツールだったわけだ。それがツイッターに換わるとどうなるか。アウトプットのためにインプットするのは同じだが、あまり考えなくなった。たとえばiPadが発売される。ブログであれば、それが社会に与える影響だとか、仕事での利用シーンだとか、アップルの戦略だとか、なんかそういうことを書いただろう。だけどツイッターであれば、「iPadほしー」くらいで終わってしまう。刹那的というか、極めてバカっぽい。熟考することがない。さらに、ブログではそれなりのボリュームを書かなければいけないから、文章を書く練習にもなるだろうが、ツイッターではせいぜい140文字。もちろん、要約する技術だったり、瞬発的なワンフレーズを考える能力だったりは向上するだろうから、ツイッターでのアウトプットがダメだというわけではない。あくまで、乗り換えてはいけないということだ。

それから情報収集として。ツイッターをやるまえまでは、RSSリーダーで300ほどのフィードを毎日追っかけていたのだけど、ツイッターを積極的にやるようになってから、RSSはほとんど読まなくなった。するとどうか。間違いなく、知らないことが増えた。え?そうなの?ということが増えたのだ。また、内容については表面的になった。ニュースなどはヘッドラインだけを読む感じなので、読んでいたとしてもすぐに忘れてしまう。先日、ツイッターはフローでブログはストックだと書いたが、ツイッターで収集した情報は、まるでBGMのようにするすると流れていってしまう感がある。これはもはや「収集」ではないだろう。これはまずいということで、数日前からはまたRSSをがんばって追うようにした。しつこいようだが、ツイッターがダメだというわけではない。ツイッターの方が向いている情報だってある。あくまで、乗り換えてはいけないということだ。

ツイッターは情報のプラットフォームとしてとてもおもしろいと思うし、今後、ユーザーが増えたときにいったいどうなるのか、とても興味深く思っている。だけど、すべてをツイッターに乗り換えると、いろいろとこぼれ落ちるものがある。ようするに使い分けが大切だという凡庸な結論なわけだけど、自分と情報とのあり方については、今後も考え続けなければいけないと思っている。

ライブ終了報告

先週の土曜日に D.N.A Rock Cafe (以下、DNA)でライブをやってきた。今年3回目。 DNA では2回目のライブとなる。今回の対バンはお店のスタッフが声をかけてくれた Group of Poverty という若い子たちと、僕が声をかけた N⇔G と福井の Make One’s Mark (以下、メイクワン)で、うちと合わせて4バンドでやる予定――だったのだけど、僕のありえない失態によりメイクワンが出られなくなってしまい、3バンドでのライブとなった。

さて、簡単に報告をしておくと、トップで出てもらった Group of Poverty はまだ10代の若いバンドだったのだけど、驚くほどうまくて、まとまっていて、オリジナルの楽曲もクオリティが高く、パフォーマンスもさまになっていて、感心しきりだった。プロ志望らしいが、あとはオリジナリティをもう少し考えれば、じゅうぶんにやっていけるのではないだろうか。デビューの暁にはぜひマネージャーで雇ってもらいたい。

2番目の N⇔G は何回も書いているので省略――というのもアレなので、ちょっとだけ書いておくと、お客さんとして来てもらった会社の同僚はこのライブで N⇔G の MC がもっともおもしろかったようだ。あまり MC が評価されるとそういう方向に進んでしまうので注意してほしい。ここはいろんな意味でうちと似ているバンドだから、なにかと心配なのだ。

で、うちのバンド。個人的には当日の昼がずっと憂鬱な会議だったので、メンタルとフィジカルのコントロールが課題だったのだけど、それはうまく対応できたと思う。ただ、これは前々からなんだけど、 DNA のドラムセットがどうも苦手で、とくにスネア・スタンドは僕の乱暴な演奏に耐えられずすぐに傾いてしまい、今回もミス・ショットを連発してしまった(追記:DNAの機材が悪いわけではなくて、たんに僕のスネアが異常に重たく、僕の演奏が異常に乱暴なのが原因)。次回の言い訳にしないよう、帰ってからすぐにスネア・スタンドを注文。今後のミス・ショットは技術的な問題だと思ってもらって結構だ。さて、他のメンバーのミスもすごく気になったけど、まあそれは今後の課題ということで。セットリストは以下。

  1. Fire for desire
  2. Liar
  3. TV show
  4. I shoot myself
  5. Just another way
  6. Love ballade
  7. Fight for our freedom
  8. Salamander

次回はぜひメイクワンとの共演を果たしたいと思う。

嬉しいことがあった

今日は嬉しいことがあったのだ。ちょっとした仕事の些細な成果なんだけど、いままでやったことのないことだったし、いろいろとプレッシャーもあったから、この第一歩は大きく、誇らしい。ただこのまま歩みが止まっちゃったら仕事としては大失敗だから、ここからが大変なわけだけど、ひょっとしたら一歩も踏み出せないのでは?という不安もあったから、とりあえずは喜んでもいいだろう。ハタから見ると、そんなことで?ってな感じだろうけどね、いろいろあったのだよ、ここまで。まあ、とにかく嬉しいのだ。まったく内容のない文章を書いちゃったけど、今日は許してくれたまえ。

母であるとはこれほどまでにしんどいことのか/映画『母なる証明』

自分ではそれほど親に迷惑をかける子供ではなかったと思っているのだけど、それでも親が学校に呼び出されたことは何度かあった。小学校のとき、絵に描いたような「悪友」が近所にいて、一緒にいるだけで問題を起こしてしまっていたのだ。ゲームセンターで補導されたり、河原で花火をして遊んでいるところを通報されたり、先生の車に悪戯したり。そんなときは母親がいつも呼び出され、注意を受けていた。それを見て子供ながらに、母親って大変だなあ――なんて思ったものだ。

母なる証明 スペシャル・エディション(2枚組) [DVD]

映画『母なる証明』(2009年、韓国)は、母と息子の関係を描いた作品。殺人事件の容疑者として逮捕された息子の無実を証明しようと、母親は自らの手で真犯人を探しだそうとするが――。監督は『殺人の追憶』や『グエムル-漢江の怪物-』で高い評価を得たポン・ジュノ。出演は韓国の国民的女優キム・ヘジャ、兵役を終えて5年ぶりの映画出演となるウォンビンなど。『殺人の追憶』と『グエムル』はかつてこの日記でも絶賛したが、この作品はそれらに比肩する傑作といえる。「母である」ということはどういうことなのか。ストーリーが進むにつれ、この問いは重さを増していく。また「血はそこで流れていない」というメッセージを読み取ることもできる。これは作品を通じて何度も形を変えて繰り返されるのだが、メインテーマの伏線になっていることはもちろんだが、過去の作品で描いてきた政治的なメッセージの変奏として解釈することもできるだろう。そしてラストシーンの衝撃。打ち震えた。

ブログが終わる日

ブログをしばらく放置してしまったからこんなタイトルにしてみたのだけど、実際にブログが終わるなんて思っているわけではない。だけどツイッターを使うようになってから、ブログを書くことが億劫になったことは間違いない。ツイッターは「ミニブログ」と言われることがあるけれど、ブログとツイッターの違いはたんに文章が短いが長いかの違いではないだろう。僕はブログとツイッターの違いを、ストックとフローの違いだと思っている。ストックすべき情報はブログに書き、フローで流してしまってもいいようなどうでもいい情報はツイッターに書く。ということはつまり、僕が発信する情報のほとんどはフローなどうでもいいものばかりで、ストックすべきものはなかった――ということだ。いまここに書いているこういうことも、べつにストックすべきような文章ではない。

ところで世界のブログでもっとも多い言語は日本語だという話がある。人口あたりではない。絶対数で英語や中国語よりも日本語で書かれたブログが多いというのだ。これは2、3年まえに言われていたことだから、いまもそうなのかは確認していないが、それなりに多いことは間違いないだろう。だけど日本人がそれほどストックすべき有用な情報を日々発信しているとは思えない。その多くはどうでもいい情報だろう。であれば、ツイッターのようなフローを発信するサービスが使われるようになれば、おのずとブログは減っていくだろう。だけどこれはブログにとって不幸なことではない。これまで有用な情報もゴミのような情報もブログとしてストックされ、それを受信側でより分けていたわけだが、今後はそういう必要がなくなるのだから。

さて、このブログはいつまで続くのだろうか。

ジョン・ボーナム大先生

定例のスタジオ練習。今日はリズム隊だけだったし、ライブが終わった後ということもあり、コピーでもしようかということになった。iPod でいろいろと探して選んだのは、レッド・ツェッペリンの「グッド・タイムズ、バッド・タイムズ」。ドラマーのジョン・ボーナムは僕が好きなドラマーのベスト3に入るのだけど、そのくせあまりコピーしていない。やってやるか!と勢いよくはじめたはいいけれど、いきなりつまずいてしまった。ドラマーならご存じかと思うが、この曲には難所があるのだ。それはバスドラの頭抜き3連といわれるテクニックで、トリプレットの頭がハイハットで、その後ろにバスドラを素早く2つ踏む。チドド、チドド、チドド、チドド――とやるわけだ(「チ」がハイハット、「ド」がバスドラ)。バスドラの連打だけなら簡単なのだが、これを流暢に演るのが難しい。このテクニック以外にもいろいろとややこしく、1時間ちょっと練習したが、完全に消化不良で終わってしまった。今日だけのつもりだったが、これはちゃんとやらなきゃいかん!と宿題にすることにした。いまは仕事が忙しい時期で、オリジナルを作る余裕がないから、しばらくはジョン・ボーナム大先生にロックドラムを習うとしよう。

今年2回目のライブ終了

D.N.A Rock Cafe でライブ。今年1月末に Minichael’s Cafe でやったライブは久しぶりということもあってそれなりに準備ができたのだけど、今回は時期的にみんな忙しく、ロクな準備ができなかった。僕といえばライブ当日に仕事をすると極端にプレイがダメになってしまうので、できるだけ避けるようにしているのだけど、今回はどうしても働かざるをえなかった。しかも朝から夕方までずっと会議。ダウナーな気分を引きずったままでロックが演奏できようか(できまい!)。本番前のリハーサルもできなかったためにPAのセッティングは最低だったし、機材のトラブルもあったし、そんなの言い訳だ!と言われれば言い訳だよ!と逆ギレするしかないんだけど、とにかく、プレイは散々だったわけだ。せっかく来てくれたお客さんにはまことに申し訳ない気分いっぱいで、これはもう反省するしかない。精一杯がんばったことだけは大声で伝えたい。

さて、セットリストは以下。

  • Salamander
  • Just another way
  • Howl for you ※新曲
  • I don’t need your love ※新曲
  • Love ballade ※新曲
  • Fire for desire ※新曲
  • Liar
  • Tokyo is dead

ブラックジョーク化する世界――映画『チーム★アメリカ/ワールドポリス』

【ブラックジョーク】ブラックジョークとは(black joke)とは、社会的に歓迎されない「悪趣味な」ジョークのこと。ジョークの面白さを残しつつネガティブ、グロテスクなどの要素を取り入れたジョーク。(略)一般的にあからさまに話題に出すのはタブーとされる、死・病気・障害・性行為・近親姦・人肉食などをネタにしたものを指すことが多く、聞き手に不快感を与えたり差別的という批判を受けかねないため、公的な場では避けられるのが普通で、内輪受け的な意味合いが強い。

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映画『チーム★アメリカ/ワールドポリス』(04年、アメリカ)は、ブラックジョークという言葉がピッタリな作品。全編にわたってマリオネット(糸繰り人形)が使われ(「サンダーバード」や「ひょっこりひょうたん島」を想起されたい)、CGは一切なし、職人たちの技術とアイディアによって驚くべき映像世界が展開される。監督・脚本は『サウスパーク』を製作したトレイ・パーカーとマット・ストーン。国際警察「チームアメリカ」によりパリに潜むテロリストたちはパリの街もろとも壊滅されたが、北朝鮮の独裁者が大量破壊兵器をテロ組織に売り渡そうとしているという情報をキャッチした彼らは、ブロードウェイ俳優をリクルートし、おとり捜査を実行するが――。チームアメリカによる無茶苦茶な破壊活動、人形同士によるセックスシーン、大量のゲロ、グロテスクな殺人シーン、どう見ても金正日にしか見えない独裁者、ハリウッド映画をコケにしたストーリー展開など、とにかくブラックジョークのオンパレード。演じているのは人形だし、バカバカしい内容なんだけど、見ているうちに、でも現実もこんな感じだよね――と思えてくるのがこの作品のすごいところ。徹底的に「作りもの」なのだが、表現されているのは「リアル」なのだ。おもしろいけど、笑いごとじゃない。映画の力と可能性と感じさせてくれる作品。強くおすすめ。

◆公式サイト http://www.teamamerica.com

少林寺拳法の原点――映画『少林寺拳法』

カンフー映画が好きだ。原点はジャッキー・チェン。テレビで放映される作品を見ながら体を鍛え、カンフーのマネをする。僕らの世代はみんな似たような経験があると思うが、僕は誰よりも影響を受けちゃって、少林寺を習いたい!と母親に懇願し、教室を探してもらったという恥ずかしい過去がある。結局、少林寺拳法の道場はあったにはあったが、家から出ているバスがなかったために、代わりに算盤を習うというわけのわからないことになってしまった。ただ、その頃は「少林寺」と「少林寺拳法」の違いも知らなかったから、道場に行っていたとしても、こんなのカンフーじゃない!とすぐに辞めたかもしれない。

少林寺拳法 [DVD]

映画『少林寺拳法』(75年、日本)は、少林寺拳法の創始者——宗道臣の半生を描いた作品。戦後の混乱期、満州から引き上げてきた宗道臣は、堕落した若者を教育し、荒廃した日本を立ち直らせるべく、各種の拳技を組み合わせた独自の武道——少林寺拳法を立ち上げるが、勢力を拡大しつつあったヤクザとの抗争が起こり——。監督は鈴木則文、出演は千葉真一、志穂美悦子など。少林寺拳法は格闘技というより護身術だというようなイメージがあったが、この作品では暴力として描かれていることに驚いた。バイオレンス映画。『仁義なき戦い』をイメージしてもらえればいい。とにかく力でねじ伏せるのだ。ラストには「正義なき力は暴力なり、力なき正義は無力なり」というメッセージが表示される。少林寺拳法はかつてこんなにも熱い武道だったのだ。宗道臣を演じる千葉真一の演技も熱く、体技もすばらしい。戦後の混乱期を描いた作品としても秀逸。おすすめ。

庶民のためのツイッター活用法

最近テレビや雑誌でもよくツイッターが取り上げられているから、はじめてみたという人も多いのではないだろうか。だけど、なにがおもしろいのかよくわからない――というのがほとんどの人の感想ではないだろう。僕は2年ほど前からアカウントを取得しているが、正直、なにがおもしろいのかよくわからない。いまのところわかったのは、有名人にはとてもおもしろく、有効活用のできるメディアだということだ。たとえば広瀬香美さんが「twitterのみなさーん、いつもお世話になっています。今日は、私からみなさんへ感謝の気持ちを込めて、新曲のプレゼントです。みなさんの為だけに作りました。今日は一緒に楽しみましょう」とつぶやけばみんな聴いてくれるし、水道橋博士さんが「スパムらしいものの削除はどうやればいいのですか?」とつぶやけば、たくさんの親切な人が教えてくれる。いままでは有名人がこういうやってメッセージを直接送り、ダイレクトにレスポンスがあるメディアはなかった。これを知った知った政治家が多く参加するのはあたりまえで、ツイッター上でフレンドたちとコミュニケーションを続けることが、支持者の囲い込みにつながるのである。だけど、これはあくまで有名人だけのことで、もしも僕のような庶民ツイッターで「みなさん、明日はライブだから来てね!」とつぶやいても、電子の海をただよいながら消えてしまうだけで、なんのレスポンスもない。もちろん、有名人のつぶやきを読みたい、メッセージを送りたい、という人には、ツイッターは便利なツールだろう。だけどそういう趣味がなければ、有名人とつながることはたいして魅力的なことではない。友人たちとのコミュニケーションツールと考えるなら、ミクシィやフェイスブックのほうがよっぽど便利だろう。本屋に並ぶツイッターの本では情報収集ツールとしての活用法が書かれていることが多いが、そういうのを書いているのはだいたい物書きやジャーナリストだから、そもそも求めるものが違うのだ。ならば庶民にとってツイッターはまったく魅力のないものなのだろうか。なんとなく最近思うことは、つぶやくことに意味があるのではないか、ということだ。誰をフォローしているとか、誰かにフォローされているとか、そういうことは関係なく、ただつぶやくことに意味がある。僕は以前、ブログを書いていることで、書くことを探すようになった、というようなことを書いた。よくブログをはじめたけど書くことがないという人がいるが、それなら、ブログを書くために書くことを探せばいいのだ。ツイッターも同じことで、つぶやきたいからつぶやくのではなく、つぶやかなければいけない、と考える。そうすると、日常生活の中で、いろんなことを「言語化」しなければいけなくなるのだ。しかも、たんに言葉にするだけだとつまらない。ちょっとヒネる。たとえば「ファミレスで日替わりランチを食べた。おいしかった。」とつぶやくのではなく、「ファミレスで日替わりランチを食べた。昨日と同じおかずだった。これでは日替わらないランチだ。」みたいにヒネるのだ。こうすることによって、考えることがクセになる。つぶやくことを探すようになる。だから、ツイッターはこれ自体がおもしろいものではない。自分で勝手に楽しむものなのだ。