カテゴリー別アーカイブ: 吉田 真吾

無料ってなんなんだろう――クリス・アンダーソン『フリー』

「無料」ということの意味がよくわからなくなっている。たとえば音楽ならこれまではレコードやCDを買って聴いていたものが、いまではネットで無料で聴くことができるし、グーグルをはじめとするWEBサービスは驚くほど高機能なものを無料で利用することができるし、スカイプなどは無料で通信することができる。だけど、すべての音楽やWEBサービス、通信が無料になったのかというとまったくそうではなく、高額のものも一方ではあるのだ。このとき〈無料のカラクリ〉がわかるのであれば、まだ理解できる。Googleなどは他の広告収入で成り立っているのだなということは想像できる。だけど、どうしてこれが無料なのだろう?と首をひねらざるをえないものもある。いったい「無料」ってなんなんだろう。

フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略

クリス・アンダーソン『フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略』(09年、日本放送出版協会 )は、タイトルのとおり「無料」についての本。無料っなんなんだろう?という疑問には、まずこのように答えてくれる。「21世紀のフリーは20世紀のそれとは違う。アトム(原子)からビット(情報)に移行するどこかで、私たちが理解していたはずの現象も変質したのだ。『フリー』は言葉の意味そのままに『無料で自由』であることになった」。なるほど、つまりいまは「フリー」の意味が移行しつつあるのだ。わからなくなるのもムリはない。新しいフリーのビジネスモデルを、著者は大きく4つに分類する。「(1)直接的内部相互補助」「(2)三者間市場」「(3)フリーミアム」「(4)非貨幣市場」の4つだ。(1)はたとえば街頭で無料の試供品を配り、そのコストを広告費として商品の価格に上乗せされるようなやり方。(2)はたとえばテレビ番組の制作費をCMのスポンサーが負担しているようなやり方。(3)は一部の有料ユーザーが、その他の無料ユーザーのコストを負担するようなやり方。(4)はボランティアなど市場原理とは離れたもので、ウィキペディアなどをイメージしてもらえればいい。ようするに、どうしてこれが無料なのだろう?と首をひねるものも、結局は〈無料のカラクリ〉が見えにくくなっているだけで、多くの場合は無料ではないのだ。で、これを可能にしたのが、つまりはインターネットなどの情報技術なのである。こういう世の中の変化を考えずに、たんに「無料だから」という理由で行動していては、場合によっては合理的ではないこともあるということだ。フリーの変化は価値観の変化でもあるのだろう。強くおすすめ。

メトロノームは電子音楽の夢を見るか

タイトルにとくに意味はない。定例のスタジオ練習。前回はリズム隊だけでメトロノームに合わせて練習したので、今回も引き続きメトロノームくんに参加してもらった。ドラマーならわかると思うが、ふだんクリックを聞く習慣がないと、それに合わせて叩くのはなかなか難しい。バンドで演奏するときはドラマーだけがヘッドホンでクリックを聞くので責任重大。ちょっとズレたと思って帳尻を合わせようとすると余計にグダグダになってしまったり、クリックに集中するあまりグルーヴ感のまったくないのっぺりとしたリズムになってしまったりするのだ。まして慣れない新曲。案の定、苦笑いの演奏になってしまった。昔よりはリズムキープはできるようになってきたのだけど、曲の起承転結においてスポード感を出したいところで実際に速くなっちゃうのだ。まあ、1曲を通してテンポは一定でなければならないというルールがあるわけではないが、スピード感は実際の速度ではなく体感速度で出すべきなのだろう。しばらくはメトロノームと一緒に練習していきたい。

映画の予算とおもしろさ――映画『テープ』

上映中の映画『アバター』を観て、これまでとはまったく違う映像世界に「映画が変わった!」と感じた人は多いだろう。たしかに『アバター』は映画史においてメルクマールとなる作品だが、今後の作品がみんなこうなるわけではもちろんない。表現方法が違うとか技術レヴェルが高いとかいうそのまえに、投入したコストが桁違いなのだ。構想14年、製作期間4年、制作費2億7300万ドル。ふつうの作品でこれだけのコストはかけられないだろう。マネーをつぎ込んでいい作品ができるのはあたりまえだ——そういう意見もあるかもしれない。たしかにそういう側面もある。もしこの作品が従来の2D作品だったら、これほどまで話題になることはなかっただろう。だけど、誰でもこれだけお金をかければおもしろい作品が作れるというわけでもない。まあ、凡庸な話で申し訳ないが、ようは監督次第ということだ。

テープ [DVD]

映画『テープ』(01年、アメリカ)は、リハーサル3週間、撮影1週間、登場人物はたったの3人、舞台はモーテルの一室——という驚くほど手軽に作られた作品。制作費の情報は見つけられなかったが、出演者のギャラをのぞけば超低コストだろう。監督はリチャード・リンクレイター、脚本・原作はステファン・ベルバー、出演はイーサン・ホーク、ロバート・ショーン・レナード、ユマ・サーマン。モーテルの一室でふたりの男がハイスクール時代の三角関係のことでモメ、そこにその女がやってきて――。設定もストーリーもいたってシンプル。ただ男女3人の会話だけで展開されていく。前半は男だけでダラダラしている感があるが、後半、女がやってきてから一気に緊張感がアップ。言った/言わない、やった/やらないのくだらない口論なのだが、3人の心情がひしひしと伝わってくる。まさに映画の醍醐味。近年の大作ブームに一石を投じる作品だろう。ユマ・サーマンの演技も見どころ。おすすめ。

Welcome to the Minichael’s Cafe

昨夜は半年ぶりのライブ。今回は久しぶりということもあるし、新曲を4曲も演るということで、かなり頑張らなくちゃいけないライブだった。さらに会場がミニケルズカフェ。昨年の4月にミニケルはいったん幕を閉じ、マスターが替わってリニューアルオープンしたわけだけど、リニューアルしてからははじめての出演となる。僕らはミニケルで生まれてミニケルで成長してきたのだけど、そこらへんの思い入れはここらへんを参照。また、今回の主催は仲間のいたるくんで、彼はこれまでいくつかのバンドを掛け持ちしていたのだけど、メインの「らせん」に集中するということで、VOW WOWのコピーバンドとミスチルのコピーバンドを卒業するラストライブで、僕らはそのゲストに呼ばれたのだった。とにかく、重要なライブだったということだ。

いたるくんのバンドについてはいたるのブログに詳細が書いてあるのでそれを参照してもらうとして、僕らベイビーバギーはどうだったかというと、完全な練習不足にもかかわらず、それなりのことができたのではないかと、自分では思う。心配していた――かなり心配していたボーカルも最後の練習時よりずっと良くなっていて、さすがちゃんと合わせてくるなあと高西夫妻を見直したのだった。今回演った新曲は演奏順に「I Don’t Need Your Love」「Howl For You」「Love Ballade」「Fire For Desire」の4曲。昨年の後半にバタバタと作った4曲だ。今回のテーマはミネさんがMCで「愛」だといっていたけれど、まあそれもないわけではないが、僕としてのテーマは、ひとみさんに歌ってもらうことだった。だから4曲中の2曲はひとみさんがメインだし、他の2曲でもできるだけコーラスを入れてもらうようにした。これまで男女のツインボーカルをなかなか活かすことができず、ずっとそれが自分の課題で、今回の新曲についてもまだまだ不十分だと思うんだけど、そういうテーマのもとに作られた4曲だったわけだ。これについてはこれからも課題として取り組んでいきたい。

さて、ライブは超満員で、まあほとんどはいたるくんのお客さんだったと思うけど、とにかく来てくれたみなさんにはありがとう。いたるくんとバンド仲間にも、そしてミニケルズカフェにもありがとう。おかげさまで重要なライブで楽しく演奏することができた。ありがとう。

かつてはヒーローだった――映画『レスラー』

プロレスは時代とともに大きく変わってきた。1953年にテレビ放送がはじまると力道山の人気とともにプロレスは国民的な娯楽となり、その後もアントニオ猪木やジャイアント馬場などの活躍もあり、1980年代まで人気を博した。しかし90年代になるとそれまでゴールデンタイムで放映されていたテレビ中継が深夜枠へ移動し、またK-1や総合格闘技などの人気もあり、しだにマイナーな存在になっていく。そして現在では「アメトーーク!」などのテレビ番組で芸人たちによってネタ的に扱われるようになってきた。プロレス自体が変わったわけではないが、それを見る人たちの目が変わってきたのだ。

レスラー スペシャル・エディション [DVD]

映画『レスラー』(08年、アメリカ)は、あるプロレスラーの引退を描いた作品。かつて人気レスラーだった主人公だが、いまではすっかり落ちぶれ、アルバイトをしながらプロレスを続ける生活を送っていた。ある日、長年のムリがたたって心臓発作を起こし、引退を決意する。それを機に長年疎遠だったひとり娘との仲を修復しようと試みるがうまくいかない。そして自暴自棄になった主人公は――。監督はダーレン・アロノフスキー、出演はミッキー・ローク、マリサ・トメイほか。不器用だがひたむきでストレートな主人公と、彼を取り巻く人たちの人間ドラマはとてもすばらしいが、なによりプロレスの本質をここまで描いた作品は他にないのではないか。プロレスをよく知らずに八百長だショーだという人がいるが、そんな人はこれを見ればプロレスのなんであるかがよくわかるだろう。それにしてもミッキー・ロークはいい仕事をした。傑作。おすすめ。

パクってるかもしれない――映画『シークレット・ウインドウ』

作曲をしていて、いいフレーズができた!というとき必ず、でもこれ、なにかのパクリじゃない?と不安になる。自分でいいと思うものほど、この耳障りの良さは過去に聞いたことがあるからにちがいない――と思うわけだ。で、実際、よくよく考えたらたしかにパクっていたということがよくある。故意にパクるのはさておき、無意識にパクるというのは、音楽にかぎらず、すべてのクリエイターにとって恐怖なのではないだろうか。

シークレット・ウインドウ コレクターズ・エディション [DVD]

映画『シークレット・ウインドウ』(04年、アメリカ)は、そのような恐怖を描いている。ある小説家のもとにひとりの男が訪ねてきて、私の小説を盗作しただろうと詰め寄る。小説家はそれを否定して追い返すが、男は自分が書いたという原稿をおいていった。読むとたしかに瓜二つ。その後も男は執拗にやってくる。やがて小説家の愛犬が殺されるという事件が起きた。その後も続く事件。しだいに小説家は憔悴していき――。スティーヴン・キングの小説『秘密の窓、秘密の庭』を映画化したもので、監督はデヴィッド・コープ、出演はジョニー・デップほか。話は「盗作」をめぐって進んでいくのだけど、ストーリーの軸となるのはこの小説家と妻の夫婦関係で、ふたりは離婚の調停中にある。盗作を否定する証拠は別居中の妻のもとにあるが、妻はすでに別の男と同居中。さらに小説家は過去に実際に盗作をしたことがあって――という感じだ。原作は読んでいないからわからないが、映画としては残念ながらまったくおもしろくない。サスペンスとしては緊張感に欠けるし、人間ドラマとしては薄っぺらい。オチも凡庸。ただジョニー・デップはいい演技をしているので、ファンは楽しめるだろう。ファンじゃなければ見る必要はない。

この登場シーンがすごい――映画『グエムル-漢江の怪物』

怪獣映画といって思い浮かぶのは日本映画だろう。ゴジラシリーズ、ガメラシリーズ、それにラドンだのバランだの、挙げればキリがないほど多くの怪獣映画が作られている。海外で思いつくのはキングコングくらいで、宇宙からやってくるエイリアンや人間が変身するモンスターを扱った作品は多いけれど、怪獣はあまりない。この違いを歴史や宗教から考察するという試みは魅力的だが、いま書こうとしているのはそういうことではなくて、お隣の韓国にとんでもない怪獣が現れたということだ。

グエムル-漢江の怪物- スタンダード・エディション [DVD]

映画『グエムル-漢江の怪物』(06年、韓国)は、韓国で作られた怪獣映画。韓国のとある研究所からホルムアルデヒドが下水に廃棄され、それがソウルを流れる漢江に流入、グロテスクで凶暴な怪物が発生し、人びとを襲う――。監督はポン・ジュノ、出演はソン・ガンホ、ペ・ドゥナなど。印象的なのは怪物の登場シーン。映画がはじまってわりと早い段階で登場するのだが、これがとにかく強烈なのだ。このシーンだけでこの作品を観る価値があるといってもいい。僕は5回ほど巻き戻して見た。このあとのストーリーは、主人公の娘が怪物にさらわれ、一家総出で助け出す――それだけ。途中だらだらするし、笑うところなのかしんみりするところなのかよくわからない場面があったり、ラストもいまいちなんだけど、まあ怪獣映画というのはだいたいこんなものだ。ただ、やっぱり日本の映画とはちがうので、そういうズレはじゅうぶん楽しむことができるだろう。この怪物が韓国にとってのアメリカだということは誰が見てもわかることだが、そういう見方をするのも一興。日本のゴジラは太平洋戦争で命を落とした日本人だといわれたりもするけど、怪獣というのは、国の中にたまった澱のようなものが獣の形として現れたものなのかもしれない。

ゾンビの現在性――映画『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』

ゾンビの歴史は古く、ヴードゥー教の伝承にまで遡る。「ヴードゥー教の伝承によれば、ボコールと呼ばれる神官たちは、犯罪者の遺体を呪術によって蘇らせ、生前の罪を償わせるために奴隷として働かせたそうだ。この生ける屍こそが、ゾンビである」(『ゾンビ映画大辞典』)。この「生ける屍」を映画化し、「ゾンビ」として世間に広めたがジョージ・A・ロメロで、彼の作品『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(68年)と『ゾンビ』(78年)はゾンビ映画の古典とされている。「生ける屍」自体は世界各地で古くからあったものだが、いわゆる「ゾンビ」の生みの親はジョージ・A・ロメロだといってもいい。

ダイアリー・オブ・ザ・デッド プレミアム・エディション [DVD]

映画『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(08年、アメリカ)は、ジョージ・A・ロメロの最新作。「ゾンビ」を生み出した『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』から40年。死体がゾンビとなり人間を襲う――というコト自体は変わらないが、社会は大きく変化した。もっとも大きな変化はインターネットだろう。ロメロは新しいゾンビ映画を作るにあたり、この大きな変化を大胆に取り入れた。ストーリーはフェイクドキュメンタリー風に進む。大学でゾンビ映画を作っていた学生たち。そこへ死者が蘇り人間を襲っているというニュースが流れる。学生たちはゾンビから逃げながらもカメラを回し続け、その映像をネットで流していく――。ロメロが伝えたかったのはこういうことだろう。どんなに悲惨なシーンでも、カメラで撮影し、映像で見ることにより、その悲惨さは薄れてしまう。見るかぎりにおいては、それが現実の出来事なのか、映画のワンシーンなのか、見分けることすらできないのだ。悲惨なシーンを冷静に撮影する人々、その映像を冷静に見る人々。そのとき、人間のグロテスクな残虐性があらわになる。ほんとに恐いのは、ゾンビではなく、人間なのではないか。こういう社会的なメッセージをゾンビ映画でやってしまうところにロメロの偉大さがある。ゾンビ映画はまだまだいける――ファンにとっては勇気づけられる作品だろう。ただ、残念ながら映画としてはまったくおもしろくない。ゾンビ映画はまだまだいけるが、ロメロはそろそろダメなようだ。

ライブの日が近づいてきた

約半年ぶりのライブが近づいてきた。今日は最後のスタジオ練習。今回は新曲を4曲も一気にどどーんと演っちゃうわけだけど、これがハッキリ言って練習不足で、今日も最後の最後までコーラスのアレンジを変えたりしてて、このままライブに突入してもいいの?という不安でいっぱい。でも久しぶりのライブだし、新曲もがんばって作ったから、今回はとくにがんばりたいライブなのだ。全員で練習することはできないかもしれないけど、自分のベストを尽くせるように練習して本番に臨みたい。

もはや例外ではない――笠井潔『例外社会』

21世紀とはどんな時代なんだろう。僕なんかは井戸端的に物騒な世の中よねえ――と思う。でもこの物騒というのは、たんに治安が悪化したとか、人々が暴力的になったとかいうのとはちがって、これまでにはなかったような、グロテスクというか、不安をあおるようなものだ。胸騒ぎといったほうがいいかもしれない。たとえば2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロは、当時のブッシュ大統領は「戦争」といったけれど、それまでの国家対国家の戦争とは異なっていたし、まして国の真ん中でいきなり勃発するような戦争なんてそれまでなかった。また同年、大阪府池田市で起きた「附属池田小事件」や、2008年に秋葉原で発生した「秋葉原通り魔事件」も、それまでの事件とは異質な感じを受けたのではないだろうか。僕らはこんな物騒で不安な世の中で暮らしていかなければいけないのか。

例外社会

笠井潔『例外社会』(09年、朝日新聞出版)は、これまでの社会では「例外」として扱っていた事態が常態化した社会を「例外社会」と名づけ、その歴史的な背景から思想的な枠組み、そして日本の格差・貧困問題から世界的なグローバリズム対イスラム革命運動までをダイナミックに論じる大著。「例外社会」は、これまでの社会とはまったく異なる社会だから、20世紀的な見方では捉えることができないし、解決策も見出せない。たとえば日本の非正規雇用やワーキングプアの問題では、「21世紀的な例外社会が直面している、分配と承認をめぐる格差化/貧困化の必然性には、(略)20世紀的な『ゆたかな社会』に戻りたいという願望も、富と貧困の二項対立を前提とした再分配の要求も無力だろう」と断言する。国家のあり方についてもすっかり変わってしまった。「1989年の社会主義の崩壊で、世界は先年王国主義の暴力や悪夢から解放されたという楽天的な主張は、2001年の9.11で根本から覆された」のだ。

第1次大戦以降、われわれの社会にとって必然的な例外状態は、国家が社会化した20世紀的な例外国家(社会の隅々にまで生権力を展開する国家)から、社会の国家化としての21世紀的な例外社会(国家の社会領域からの撤退に応じ、生権力を自生化する社会)に変貌した。「ゆたかな社会」の崩壊以降、社会領域から撤退した国家は、人口を生と死に分割する人種主義的な例外国家を模倣しはじめる。同時に社会それ自体が、監視カメラの事例からも窺われるように、例外状態を構造化するようになる。

僕らはこれまでとはまったくちがう社会を生きている。これまでの見方、考え方、やり方ではダメなのだ。さて、僕らはこの21世紀をどのようにサバイブすればいいのだろうか。