世界はもう戻れない

明日からまたガソリンが値上がりするそうだが、そんなおり「クーリエ・ジャポン」誌に連載されているポール・クルーグマンのコラムを読んで暗澹たる気分になった。タイトルは「深刻化する資源価格の高騰で世界の未来はどうなる?」だ。クルーグマンは「天然資源の限られた供給は、世界経済の成長に歯止めをかけるだろうか」という問いを考えるために、まず資源高騰の原因と今後の予測として3つの見かたを提示する。1つ目は「投機」が主な原因で、バブルがはじければ資源価格は急落するという見かた。2つ目は需要の急増が原因で、新たな油田が見つかれば供給が追いつくという見かた。そして3つ目は、安価な資源の時代は永久に終わったという見かた。これらに対しクルーグマンは、投機であるならどこかに在庫があるはずだが、それが見当たらないことから1つ目を否定し、中国やインドがこれからも成長を続けることは間違いないが、大規模な油田が発見されることは滅多にないとして2つ目も否定してしまう。

仮に、私たちが本当に地球の限界まで開発し尽くしているとすれば、それは何を意味するのか。

生活水準が上がらないのはともかく、下げるなんてことができるだろうか。自家用車は禁止され、ネオンは消える。サービス産業は縮小し、農家が増える。たぶんそんな長閑な生活はできないだろう。限られた資源を求め、醜い争いが起こるに違いない。まあ、いますぐではないかもしれないが、事態の深刻さとしては、今日のうちにガソリン入れておこーっと――というレヴェルじゃないことはたしかだ。

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

宮台真司、北田暁大『限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学』(双風舎、05年)を読了。読み終えるのに半年以上かかってしまった。本のデザインが醜悪でなかなか読む気が起こらなかった――というのもあるが、本文479ページのどこを開いても難しい単語がぎっしりとつまっているもんだから、スラスラと読ませてくれなかったのだ。内容については、あとがきで宮台が次のようにまとめている。

本書は、「全体性へのどんな言及もすぐさま部分化されるという、再帰的近代のコミュニケーションを必然的に見舞う強迫的なアイロニズムに抗いつつ、いかに全体性への言及可能性を確保するか」という不可能な課題をめぐる、ロマンチックな対談の記録である。

だけど、対談がはじめからこのような共通認識で行われたわけではない。あくまで事後的に判明した内容だ。つまり、俺たちなんの話をしてるんだろう――と延々しゃべったあとで、あ、こういう話をしてたのか――と。実際のページ数以上に長く感じられたのは、道のりの険しさもさることながら、先が見えず、歩いている意味さえわからない状況だったからだろう。

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